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080821 主への信頼

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Notes & Transcripts

080821 主への信頼

出エジプト記15:1-27

少し長い箇所ですが、15章全体を読みました。

13章後半の出エジプトから18章の終わりまでを一つの区切りと見る時に、はじめと終わりに戦いがあり、その対比の中で、戦いは主のものである、ということ。そして、その戦いで私たちに求められていることは、何よりも主への信頼である、と言うことを前回エジプトとの戦いとアマレクとの戦いを比較する中で見てきました。

どちらも、主の戦いであり、片方は、主の備えられた道を、歩いていくことが求められ、もう片方は、民にも戦うことが求められました。いずれにしても、紅海を渡り、エジプトの民との戦いも、アマレクとの戦いも、モーセの腕が伸ばされているそのもとでのことでした。アマレクとの戦いの中で、モーセの手が伸べられている時に民は優勢に戦い、モーセの手が重くなってきて、手を降りてきてしまうと、民は劣勢になった、と記されています。主の戦いであり、その時その時私たちのなす働きは異なるかもしれませんが、しかし、いずれにせよ、主の働きである。ということ。

<聖会のこと?>

そして、その二つの戦いを両端に、その内側に記されているのは、二つの飲み水をめぐる出来事です。一つは先ほど読みましたマラでの出来事。もう一つは、17章に記されているマサ(別名メリバ)での出来事です。そして、これは次回見ますが、マナを与えられる。ということが中心の16章に記されています。

これらのことは私たちに何を教えるのでしょうか。

それは、主が備えられる、と言う事実と、その事実に対する、主の備えに対する、私たちの側においては信頼、と言うことではないでしょうか。

戦いは、主の戦いであるのですが、私たちは、民は無関係ではありません。主に信頼し、主の備えられた道を歩み、主の戦いを共に戦っていく。その主の備えと導きを信頼し従っていくように。そのことを主が忍耐強く、一歩一歩導いている姿を見るのではないでしょうか。

15章に戻りたいと思いますが、イスラエルの民はここで試されたとあります。驚くべき奇跡を見た後だと言うのに、そして、そのことを主に向かい、歌った後だというのに、すでに彼らはつぶやきます。READv22-24.

彼らの賛美は偽りではなかったと思います。v2.神中心の彼らの賛美から私達の賛美において参考にできることがたくさんあります。

しかし、彼らは、着の身着のまま、エジプトを出てきました。それなりに蓄えを持っていたかもしれませんが、全て持ち運ぶわけには行きません。水もそんなものの一つです。せいぜい持ち運べたとしても、一人1日、2日分。3日歩いているうちに、水もそこをついてきた。彼らはつぶやきます。

このことは、一つには、私たちの生活のところに、日常のことに、私たちの信仰が、神様への信頼が一番届きづらいことを表しているものでもあります。たとえとして適切かどうかわかりませんが、信仰深い者でも、おなかがすいている時や、起きがけは機嫌が悪いことがあります。体と切り離されて生きているわけではないので、生理的な必要に、私たちは左右されます。

実際、私たちは、信仰を持つ時、どちらかと言うと、永遠の命のためには、神様を信じやすいと思います。こういうのもなんですが、実際は、私たちにはわからないところだし。しかし、具体的な生活のことに関しては、私たちはどうしても神様より、経験や肩書き、能力、人の評価、目に見えるものを信頼してしまうのではないでしょうか?

以前気がつかされたことがあるのですが、通帳にどれだけの残高があるかによって、心の平安/不安と言うものが影響されるんですね。学生の頃は10万あれば安心だったのが、働くようになって、30万切るとちょっと不安になってくる自分がいることに気がつかされたことがあります。30万が多いのか少ないのかも人それぞれの感覚だと思いますが。もっと身近なことで言えば、財布にどれくらい入れておくか。それを大きく下回ってくると、私たちは不安になり、すぐおろして補充するのではないでしょうか。補充することができないのであれば、そうならないように気をつけます。(Not that we need to test ourselves by seeing how far we can go without money in our purse.  But just the fact that we can be easily swayed.)

私たちは、主の祈りで日ごとの糧を今日もおあたえください。と祈ります。また、イエス様は何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などといって心配するのはやめなさい。とおっしゃっています。宣教師や牧師先生の話を聞いて、すごいな、と思いながら、しかし、自分とは違うな、とあきらめているところがあることはないでしょうか?主が必要を備えてくださる、と言うことはいろんな人の証しでわかっています。が、なかなか実行できない。

<一番大好きな話。Barker先生のこと?(奥様がバレエをなさる方。)先生は、あまりにも自分が堕落した生活をしているから、献身でもしない限り天国にいけない、と思って、神学校にいったのですが、神学校で、神様の救いが一方的な恵みによる、と言うことを知り、あまりもの感動のあまり、それまで10分の一献金をしていたのを、その感謝を表すために、これからは、その献金を増やして行くように導かれた先生です。アラバマ州のバーミングハムで20の家族と一緒に始めた開拓教会で、本当に朴訥な先生で、しかし忠実に奉仕していく中に、教会も成長していって、私が半年間お世話になった時には、5000人の教会になり、次の牧師にバトンタッチした後でした。その頃までには、先生の献金も、十分の一どころか、収入の7割を献金するまでになっていた、と言うのですから驚きです。

私が先生の話で、一番好きなのが、長男だか、次男が生まれる頃の話で、まだ、教会が成長段階なので、決して豊かではない中での事です。先生は、訪問に行くのに、車を使っていたのですが、窓の部分が壊れていて、窓ガラスをあけられないようになっていて、雨が振る時は片側がびしょぬれになる、と言うような状態でした。それ以上に、何とか食べてはいけるものの、出産が近くなるにしたがって、出産費用をどうしよう。という心配がありました。車の事と、出産費用の事。この二つのことが何よりもの先生ご夫妻にとっての祈りの課題でした。出産費用は、アメリカは保険が利かないので、当時のお金で500ドルかかる、と言われていたそうです。ある日、教会を訪れて救われた人が、先生のところに来て言ったそうです。「先生。私は車の販売をしているのですが、先生に提案があります。私の会社で、先生に車を提供するので、先生に乗っていただけませんか。ガソリンも出します。先生に乗っていただく事によって、会社にとってもある意味宣伝になって益となると思うのです。」バーカー先生はなんて答えたらいいか、わからず、喜んでその車を乗らせていただく事にし、そして、古い車はその彼に預け、新品の車に乗って帰っていって、バーバラ、バーバラ、信じられない事が起こったよ!とおくさんを呼んだら、なんと奥さんが陣痛が始まったらしく、その新品の車で最初のドライブが病院へ、と言う事になった、と言う事でした。そして、無事子供が生まれ、しかし、どうしても、500ドルが無い。退院の時に生産しなければいけないのだが、どうしたらいいんだろう。そんな時に、例のカーディーラーが立ち寄って、「先生。この間預かった車、ちょっと修理して、中古車として出しておいたら、売れましたよ。これ、代金です。」と言って、封筒を置いていったそうです。そして、驚く事に、その封筒を開けてみたら、ちょうど出産費用分の500ドルが入っていた、ということでした。>

こういう話は特別な人の証しなのでしょうか?

出エジプト記を読んで行くときに、13章から18章にいたるまでの出来事とその組み立てを見ていく時に、神様は私たちが信頼する事を望んでおられ、そのために民を試みられ、民に教えられる、ということを知る事ができます。出エジプト記で、このように、神様が、これほどまでして、一歩一歩導いて、イスラエルの民に教えようとされたほどのこと。もしかしたら、私たちは、あきらめてしまう時に、とってももったいないことをしてしまっているのかもしれません。清貧でありなさい。と言うこととは限りません。ポイントは、主への信頼です。

信じてすぐに天国に行くのならまだしも、私たちは、約束の地にいたるまで、この地上を長く歩んで生きます。その歩みにおいてこそ、何よりも、神様への信頼が私たちを導いていくのではないでしょうか?26節の神様の約束が無ければ、私たちは荒野を彷徨い、疲れきってしまうだけです。神様はその導きにおいて、人の力の及ばない、人ではどうにもできない状況からの救出においても、その戦いにおいても、そして、その日常においても、主に信頼し、主の備えに期待し、主の道を歩む事を望んでおられます。25節の後半で記されているおきてと定め、というのは、まさに26節の主の言葉のことです。READ

主の声に聞く。主が正しいと見られる事を行う。主の命令に耳を傾ける。そのおきてを守る。その時に、主は災いの神ではなく、癒し主である事を知ります。そして、27節にあるような、豊かな水のほとりに導かれるお方であることを知るのではないでしょうか。

神様はまだ、主を信頼し切れていない民に、一つ一つの出来事を通して、信頼するようにと教えられました。この出来事はある意味不思議な出来事です。ユダヤ人も、クリスチャンも、この箇所を解釈しきれないでいます。

水が苦いと言う事がどういうことなのか。その水に、一本の木を入れたら何故水は甘くなったのか。物理的な説明を求める人は、木によって何かしらの化学変化が起きたのだ、それとも、墨のように、木の中を通っている細孔を通った時に、苦味成分が取り除かれたのでは、と説明しますが、その地に住む遊牧民もそのような性質・性格のある木は存在しない、と言います。どんな説明をするにせよ、神様の御手の業を否定することはできません。

しかし、神様がなされた奇跡であるのであれば、何故一本の木が示されたのか。何故、今までと同じようにモーセの杖が使われなかったのか。なぜ、神様の力と導きの象徴である、杖を振りかざし、水を変えられなかったのか。わかりません。後半の17章(マサ/メリバ)での水事件の時は、モーセの杖が用いられます。クリスチャンの中では、この木を、イエス・キリストの十字架を指し示しているものである、と主張するものもいますし、そこまで言うのは言いすぎだ、と言う人もいます。しかし、事実、何故、神様がこのような手段をとられたのか、わかりません。

このことの中にイエスの十字架を読み取ることは、読み込みすぎかもしれませんが、出エジプトが型となっている私たちの罪からの救いは、確かに、一本の木の上にかかられたお方によって、きよめられた、と言うことは事実です。

そして、最後に、ここで心に留めておきたいことは、主のおきてと定めは主がなされた御業の後に与えられた、と言う事です。神様は民を試され、彼らに主を信頼し、主のなさる御業に預かる事をゆるされ、その上で、彼らに神の道を示しておられます。救って終わりなのではなく、歩む道をちゃんと備えてくださっているのです。

主の導きは確かです。あわれみ深く、人のことをよく知っておられ、忍耐強く、一歩一歩導かれます。この主への信頼がさらに深められていくことがどれほど幸いな事なのか。私たちの生活のあらゆる部分において、主への信頼が広がっていく事を共に祈っていきたいと思います。

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